秋田楢山教会 日本キリスト教団 〒010−0011 秋田県秋田市南通亀の町12−19
018−832−4938 ecclesia@akita-narayama.org 牧師 川島 隆一
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【危機】
「...日本でのキリスト者がもっとも注目、心を砕いた問題は、
かれらが日本の社会に当面した現実の問題処理、
つまり世俗世界に対する倫理問題だということである。...
しかもそのエネルギー提供源はけっして聖書ではなく、
ナショナリズムであった」(大内三郎『聖書と日本』)。
これはひとりの倫理思想史専攻者がわれわれプロテスタント教会
の百年間の宣教を検討した診断の言葉である。
聖書を何よりも重んじてきたはずの日本の教会とキリスト者が、
なおもこうした鋭い言葉でその欠陥を指摘されるところに
深い問題の根を感じないわけにはいかない。
キリスト者の行動様式の中に見られる〈二元的等置〉が
日本人一般の精神構造の重層性と対応するとすれば、
われわれの克服すべき課題は
日本の精神史の重要な問題点と深くかかわるはずである。
しかるに今日ではキリスト者の行動様式から
聖書に従って生きるという型が急速に後退し、
解消することによって、
課題は克服されぬまま課題であることをやめたかに見える。
危機は深くそして大きい。
(左近淑『混沌への光』)
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【千年と一日】
この文書は千年にもわたっている。
千年もの時が、そのことにあずかっている。・・・それは、
新約聖書において達せられた目的に至る長い旅であった。
新約聖書に書かれていることは、
ある一日の出来事に凝縮できる。
ヨハネによる福音書によれば、その日とは、
人の子が上げられた日である。
復活と同じように、十字架も「上げられること」、
「栄光を受けること」の中に含めて理解されている。
四つの福音書の記述がその目的としているその一日は、
旧約聖書にとってもまたその目的なのである。
この一日は、実際のところ、
そこに至るまでの長い道程を離れては理解することはできない。
この千年は、その一日を離れては結末も、終着もないのである。
(ヴェスターマン)
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【神の愛の聖性】
わが愛する主よ、教えて下さい。
全世界の贖いのためには、
あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、
なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。
主よ、わたしは知っています。
それはあなたがどんなに深くわたしを愛してい給うたかを
示してくださったのだということを。
(ボナヴェントゥラ)
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【神を信じない教会】
神を信じないさまざまな教会が、今日、倫理会という名称で
世界に普及しつつあるが、それらの教会においても、
同じように抽象的な神性が崇拝されたり、
道徳的法則が究極的対象として信じられていたりするのである。
(ウィリアム・ジェイムズ)
社会福音派運動の神は、人間のすべての理想的属性を
具現化したものとほとんど変わらない、
愛と憐れみという存在だった。・・・
贖い主キリストは慈悲深い賢い教師イエス、あるいは
霊的な天才でその内に人類の宗教的なさまざまな能力を
十分に発揮された者になってしまった。「同情的イエスが
カルバリーのキリストに取って代わってしまった。」
(デイヴィッド・ボッシュ)
もしキリスト教が、まじめな生活、立派な生き方、
価値のある親切、誉れある事業、熱心な慈善、
公共の正義などを意味するならば、それは充分真理であろう。
しかし、これらすべての素晴らしく価値ある事柄は、
神との人格的交わりの欠如と関連しているのである。
(P.T.フォーサイス)
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【旧約聖書の読み方】
現代人としてのわれわれの苦悩は何よりも歴史的な苦悩である。
歴史の苦しみに心底からこたえてくれるのは、
歴史の苦しみの炉で錬りきよめられた思想であろう。
旧約聖書とはそうした文章なのである。
この小さな書物に願いを託すことがあるとすれば、
呪われているかに見える世界にありながら、
こうした旧約聖書の読み方によって、
それ以外にはえられない上なる慰めと希望を与えられ、
雄々しく生き抜く魂を見出してくれることである。
(左近 淑 『混沌への光』序)
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【新約における旧約の現在化】
新約聖書をーきわめて根本的な点を見るだけでもー
最も遅い時期に書かれた書に至るまで貫通しているのは、
全く新しいことの到来に対する驚きのパトスであり、
神の救済行為の全く新しい地平が開ける始まりに
人々が置かれているという圧倒的な自覚である。
神の国が来た。その新しい出来事
ーイエスの宣教、彼の死と復活ーから旧約の理解が生じる。
人々は律法という支配的な局相のもとではなく、
救済史的局相のもとで旧約を読んだのである。
そのことによって
全く新しい旧約理解への門が開かれたのである。
新約の至る所で、神の新しい時の中に置かれているという
感情の高揚が表現されている。
(フォン・ラート)
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【復活体験】
復活の日々の出来事はおそらく後になってからではなく、
全くの最初から
弟子たち自身によって来たるべき神の日の始まり、
大いなる復活の開始として体験されたものであろう。
(A.シュラッター)
イエスの死と復活において神顕現が
ーキリスト顕現としての神顕現がー起こる。
それは、実際に起こることによって
人間が経験的に把握しうる神の行為なのである。
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【十字架の神】
困窮の中にある人間は、神のもとに行き、
助けを求め、幸福とパンを乞い、
病と罪責と死からの救いを願い求める。
キリスト者も異教徒も、みなそうする。
人間は、困窮の中にある神のもとに行き、
貧しく、罵られ、枕するところもパンもない神を見出し、
罪と、弱さと、死に飲み込まれている神を見る。
キリスト者は、苦しむ神のもとに立つ。
神は、困窮の中にあるすべての人間のもとに行き、
神のパンをもって肉体と魂を飽かせ、
キリスト者と異教徒のために十字架の死に赴く。
神は、すべての人間を許す。
(D.ボンヘッファー)
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【キリスト受難像】
フランシスコ・ハビエルの時代から今日に至るまで
この行為に付け加えられた意味の奥には、
ユスティノスやテルトゥリアヌスによって宣言された
単純な真理がある。
すなわち、忠実なキリスト者の死に方は、
キリスト者であることの意味を最も良く伝えるものである。
宣教師の十字架や十字架上のキリスト受難像は、
キリスト教一般を現わす単なる飾りではない。
それは福音が全世界に呼びかけていることを、
強力に説き明かすものである。
それを受け取る者は、
彼らの使命の象徴を持っているだけでなく、
その使命をいかに遂行するかを知るための
ハンドブックを持っているのである。
(ウィリアム・フレイザー)
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【光の体験】
その夕刻(再発がわかりショックを受けた日)。
自分のアパートの駐車場に車をとめながら、
わたしは不思議な光景を見ていました。
世の中が輝いてみえるのです。
スーパーに来る買い物客が輝いている。
走りまわる子供たちが輝いている。
犬が、垂れはじめた稲穂が、電柱が、
小石までが美しく輝いてみえるのです。
アパートへ戻って見た妻もまた、
手を合わせたいほど尊くみえたのでした。
(井村和清『飛鳥へ、そしてまだみぬ子へ』)
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【美のひと】
美はその至高の姿においては、宗教の聖と繋がる
人間における最高の価値である・・・。
美は基本的には、精神の犠牲と表裏する人格の姿なのである。
われわれは、義のひとを賞讃し、
善のひとを賛嘆することはできる。
しかし、それらの賞讃や賛嘆がわれわれを動かすであろうか。
われわれの命に立ち上がる力を与えるもの、
それは、輝き出てくる美しさだけなのである。
美のひとのみが力を喚ぶ。
(今道友信)
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【人間になること】
文化の最古の諸層においては、
人間的であると考えられる生活は、
それ自身において宗教的行為である。
というのは、食料収集も性生活も仕事も、
象徴的な価値をもっているからである。
いいかえれば、人間であること、
というよりはむしろ人間になることは
「宗教的」であることと同じなのである。
(M.エリアーデ)
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【最悪の病気】
今日の世界の最悪の病気は、結核でもハンセン氏病でもない。
そうした病気には薬もあるし、治療もできる。
自分はこの世にいてもいなくてもいい、と感じること、
精神的な貧困と孤独こそが、人間にとって一番ひどい病気です。
その人びとのために自分の心と自分の手を差し出すこと、
これ以外にこの恐ろしい病気を治す道はありません。
(マザー・テレサ)
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【信仰の心と形】
信仰生活の外形・かたちと信仰そのものとの間には、
最も密接な関係が存在し、
建築的・形態的伝統を尊重することがなければ、
神聖な聖体拝領の戒律における内的信仰を
維持することはほとんど不可能である。
(A.W.N.ピュージン)
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【歴史を創る者】
歴史をつくるのは民衆だというが、民衆それ自身ではない。
民衆は本質的に保守的なもので、
自己保存的な体質を持っている。
歴史を決定的に動かすのは、民衆から離れず、
民衆の一歩前を自覚的に歩いてゆく少数の小リーダーである。
その小リーダーの運動が、
不断に変革を準備することをしていなくては、
歴史の創造の主役として
民衆が政治の局面に登場することはありえないと思う。
(色川大吉 『昭和史世相篇』)
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【十字架に対する復活の矛盾】
われわれには永遠の生命が約束されている。
しかし、われわれ死人に対してである。
われわれには祝福された復活が宣べ伝えられている。
それでもわれわれは腐朽に取り巻かれている。
われわれは義人と呼ばれている。
それでもなおわれわれの中には罪が宿っている。
われわれは言い表わせない至福について聞いている。
しかしなおわれわれは、
ここにおいては無限の悲惨に圧迫されている。
われわれには、あらゆる良きものに満たされるであろうとの
約束が与えられている。
しかし、われわれには飢えと渇きだけが満ちている。
もしわれわれが希望に支えられていなかったならば、
そしてわれわれの心が、
神の言葉と霊によって照らされた道にそって暗黒を突き破り、
この世界をこえて急ぎゆくのでなければ、
われわれは一体どうなるであろうか!
(カルヴァン「ヘブライ11:1」より)
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【光を見る術】
何人も光りを見ることができない今この時代において、
光りをたたえ神を説くのは空しい。
必要なことは、人びとに光りを見るすべを教えることなのだ。
(ユング 『心理学と錬金術』)
イエスは言われた、
「わたしは道であり、
真理であり、
命である。
だれでもわたしによらないでは、
父のみもとに行くことはできない。
(ヨハネ14:6)
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【神の目に見える現存】
神の〈愛〉が内にいきいきと生きている人々が
この世に存在するということを除いては、
神は、この世に不在なのである。
だからその人々は、
憐れみによってこの世にあらしめられているのにちがいない。
その人々が抱く憐れみこそは、
この世における神の目に見える現存である。
(シモーヌ・ヴェイユ)
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【苦難にある者たちの告白】
私は神に求めた、成功をつかむために強さを。
私は弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。
私は求めた、偉大なことができるように健康を。
私は病気を与えられた、よりよきことをするために。
私は求めた、幸福になるために富を。
私は貧困を与えられた、知恵を得るために。
私は求めた、世の賞賛を得るために力を。
私は無力を与えられた、
神が必要であることを知るために。
私は求めた、人生を楽しむために全てのものを。
私は命を与えられた、全てのものに楽しむために。
求めたものはひとつも得られなかったが、
願いはすべてかなえられた。
神に背く私であるのに、言い表せない祈りが答えられた。
私はだれよりも最も豊かに祝福されている。
作者不明(春原 試・私訳)
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【平和の祈り】
主よ、あなたの平和を人びとにもたらす道具として、
わたしをお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
不当な扱いのあるところに許しを
分裂のあるところには一致を、
疑いのあるところには信仰を、
過ちのあるところには真理を、
絶望のあるところには希望を、
暗闇には光を、
悲しみのあるところには喜びをもたらす者として下さい。
慰められることを求めるよりは慰めることを、
理解されることよりは理解することを、
愛されることよりは愛することを求める心をお与え下さい。
私たちは自分の命を差し出すことによって命を見いだし、
自分に死ぬことによって永遠の命を得るからです。
(アッシジのフランシスの祈り)
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